福祉工学入門 

出典: 工学を目指す高校生へのプレゼント わかりやすい工学入門? 3
岩手ネットワークシステム 編集
発行 岩手大学工学部・岩手大学地域共同研究センター
2001年11月 発行


福祉工学入門 工学部福祉システム工学科 教授 一ノ瀬充行

最近、テレビ・新聞等のマスコミにおいて福祉工学という言葉をよく耳にすることが多くなってきたと思います。そこで、福祉工学の目指すものを理解してもらいながら、岩手大学工学部福祉システム工学科の存在を多くの人々に知ってもらいたいと思います。特に、高校生の皆さんにはこれからの工学のあるべき姿を考えてもらえる機会を提供できたらありがたいことだと考えております。本稿では、以下の8項目について、簡単にまとめてみましたので、皆さんの進路決定の参考にしていただければ幸いです。

目  次


1,21世紀に必要とされる工学

2,人間生活工学とは?

3,高齢者の心理、行動について

4,バリアフリー、ノーマライゼーションという考え

5,ユニバーサルデザインとは?

6,福祉・人間工学の専門家養成を

7,岩手大学福祉システム工学科

8,キーワード


1,21世紀に必要とされる工学
平成12年において、日本の高齢者人口(65歳以上)の割合は国民人口の約17.2%でした。平成20年には21.2%、平成32年には26.4%、平成50年には30.2%に達すると言う予想がされています(厚生労働省人口問題研究所)。つまり、3人に1人が65歳以上の世の中である(子供1人、就業者1人、高齢者1人で1つの家族)ということです。このような急速な高齢者人口の増加は、高齢者化が進んでいると言われているドイツ・イギリス・スウェーデンなどの西欧諸国でも経験したことがないくらいの急激なスピードで、しかも世界で最も高い水準の高齢社会になっていくと予想されるのです。このような日本社会の変化は悲観的にとらえるべきではなく「社会の成熟」として前向きにとらえるべきでしょう。一般家庭に特に買う必要のあるものは少なくなり、医療と保険制度の進歩により健康の維持に対する不安も少なってきました。このような成熟社会のなか、既に広く知られている生体医工学も新しい社会的要求に対応していかなければならない時期が来たように考えられます。生体医工学は医学生物学と工学の複合領域であります。しかしこれだけでは「少子高齢社会」を「長寿福祉社会」にすることはできません。そのために福祉の概念を融合する必要があります。このような時代の要請のもとに、福祉を支える工学技術の発展が望まれ、大学において教育・研究を推進しようと進んでいるのが現状と考えられます。それゆえに福祉工学が叫ばれるようになったのです。一般に、福祉工学というと障害者介護・介助のための狭い福祉工学技術を連想される方が多いと思いますが、すべての人にとって、あらゆる状況に置いて役立つという考え方にたった広い工学技術と捉える方が本来の工学の立場ではないかと考えています。

2,人間生活工学とは
そこで、人にやさしい物作りのためには、人間工学に基づかなければなりません。最近では、更に進んで、人間生活工学という分野ができております。すなわち、人間生活工学とは、「私たちの暮らしを豊かにするもの」を作ることです。具体的に言うと、「安心・安全・快適・健康・便利」と言った条件を備えた“物作り”です。そのベースにあることは、「人間の特質」と「生活の特質」です。人間の特質を考える技術を“人間工学”といい、生活の特質を考える技術を“生活工学”といいます。そしてこの両者を併せた技術が“人間生活工学”といわれるものです。日本の製品では 
「人間生活工学」が欧米製品に較べて必ずしも十分考えられてきませんでした。たとえば日本の乗用車は欧米向けと日本市場向けとでは安全性に大きな違いがありました。欧米向け輸出車では価格や燃費を犠牲にしても厚い鋼板のボディが採用されていましたが、日本向けでは価格や燃費を向上すべく薄い鋼板が使われていました。これ 
は、作り手の責任と言うより使い手が望んでいなかったということがあると考えられます。そしてその背景には日本人の文化、製品に対する価値観があるようです。そこで、日本企業は機能・性能・信頼性・価格を重視したものを作って来たわけです。ところが、近年日本においても「人間生活工学」を全面にだしたものづくりが必須のこととなってきました。次のような理由が考えられます。
・製造物責任法が制定され、製品安全に関する関心が高まったこと
・高齢者の増加に伴い、使い勝手がより重視されるようになってきたこと
・日本人の生活が安定し、価値観も多様化し、安全・安心だけでなく、健康・快適にも注意が払われるようになってきたこと
・個別家庭化などライフスタイルが多様となり使い手一人一人の生活を踏まえたものづくりをしないと、購買されなくなってきていること
・海外渡航が楽になり、また欧米の生活用具などが輸入されるようになり、欧米の人間中心の豊かな暮らしぶりに触れる機会が増えてきたこと
・ISO13407(対話型システムの人間中心設計原理)、12100(機械安全)などの人間生活工学に関係するISO規格が設定されつつあり、この規格を取得しないと輸出ができないこと
 これらの理由により、今後は日本においてもますます人に優しい物作り重要視されてくると考えられます。

人間生活工学に基づく工業製品品質の要点(人間生活適合性的品質管理)
・安心
安全である(怪我をしない、病気にならない、製品価値の減失がない)
秘密が漏れない・管理やサービスを任せられる
・安全
身体にフィットする、無理をしないで使える
エラーやミスをしないで使える
怪我をしないで使える・事故が起こらない
・健康
使っていて、疲れない・病気にならない
有害物・有毒物が使われていない
健康が推進される
・快適
不潔でない・使っていて恥ずかしくない
自分好みのデザイン・使ったときの快感がある
自分だけが持っている満足、優越感、奉仕してもらっているという感じがある
・便利
便利な機能がついている
どこで入手できるか分かる、すぐ手に入る
組立設置、分解、修理も自分でできる、困ったときのサービス体制がある
ゴミで捨てられる、リサイクルできる、ライフスタイルに適合している

3、高齢者の心理、行動について
福祉工学を考える場合に、高齢者の身体機能を理解する必要があると考えられます。 
以下5点について高齢者の特徴を述べてみましょう。
・視覚機能の衰え
近くのものに眼の焦点を合わせたり、動いている物に焦点を合わせるのが難しくなります。また、明順応や暗順応が難しくなったり、視野(特に前方上方視が困難)や色覚の問題がでてきます。
・聴覚機能の衰え
聴力が衰えることと、甲高い声が聞き取りにくいなどの結果、大きな声で話すようになり、それにつられて周囲の人間の声も大きくなり、お互いに会話するのにエネルギーをさくことになり、疲れてしまいます。また、聴力の関係から会話に加わりにくくなり、周囲の人間から疎外されがちになります。
・身体機能の衰え
歩く、昇る、降りるなどの移動能力の低下、さらに俊敏性や平衡感覚の低下、物を持つ、つかむ、おす、引っ張る、回すなどの手指の操作性の低下などの身体諸機能の衰えにより、日常生活の行動にかなり支障がでてきます。
・知的機能、記憶機能の低下
一般に知能テストなどの成績が60歳くらいから低下する事が知られています。特に動作性知能といって、図形の弁別、規則性の発見など、図形や空間認識の刺激に対してスピードを要求される情報処理能力が低下すると言われています。一方、言語性知能といって一般常識、語句の意味、計算などの知的機能は比較的よく保たれていま 
す。また、記憶には短期記憶(刺激提示から数秒〜数分程度の記憶)と長期記憶(それ以上の長い間の記憶)がありますが、高齢者になって低下するのは短期記憶と言われています。そして記憶には覚える(記銘)持ち続ける(保持)・取り出す(再生)の3つのプロセスがありますが、老人性痴呆の症状の「記銘障害」は、今聞いた新し 
いことが覚えられないという記憶機能障害です。
・心理機能適応能力の衰え
以上のように、高齢者の心理、身体的の衰え方から、若いときに較べると環境にたいする心理的適応能力が低下することが考えられます。
これら5つの機能低下を補助・補償できるための機器が安価に世の中に出まわれば、たとえ3人に1人が高齢者の時代になっても、社会の人々は安心した生活が送れることでしょう。まさにそのために福祉工学が必要とされているのです。

4、バリアフリー、ノーマライゼーションという考え
さらに視点を高齢者から他の人々に目を向けたときに大切な考え方があります。バリアフリー、ノーマライゼーションという考え方です。バリアフリー(barrier free)とはもともは建築分野の専門用語で、段差の解消などの生活上のあらゆるバリア(barrier、障壁)をフリー(free、取り除こう、なくそう)とする考え方です。この考え方は、障害者や高齢者など社会的弱者含めて、だれもが暮らしやすい社会を目指そうとする運動のキーワードになっています。また、1960年代に北欧で起こったノーマライゼーション(normalization)とは、「障害者も1人の人間として同じ地域社会に住む普通の人々と出来るだけ変わらない生活を送れるようにするという理念」です。このノーマライゼーション、バリアフリーと言う考えは人にやさしい社会の実現を目指した理念と言えるでしょう。そのためには、日々の暮らし、住み良い環境において障害がある人でも安心して暮らせるような改善が様々な分野で求められています。具体的には日常生活用品から住宅、道路、公共施設、病院、公共交通機関などが、障害がある人でも使用したり利用できるような配慮がなされることです。

5,ユニバーサルデザインとは
バリアフリー、ノーマライゼーションを実現するために、物づくり時に配慮しなければならない考え方としてユニバーサルデザインという考え方があります。ユニバーサルデザインとは、誰にとっても使いやすいという発想で、あらゆる物がデザインされることです。この考えを浸透させるために、アメリカのロン・メイス(1990)は次のような7つのコンセプトを提唱しています。
・公平な利用、
・使う上での柔軟性、
・簡単明瞭な使い方、
・わかりやすい情報、
・ご使用に対する寛大さ、
・軽い肉体的負担、
・接近して使えるような寸法と空間
これらのコンセプトは、障害者やこども、高齢者、妊婦といった人たちが使う場合も苦痛なく、簡単に使えるように、物や環境のデザインを考える基本姿勢であるといえます。つまり21世紀の高齢社会では「ユニバーサルデザイン」を基本理念として、バリアフリー社会を実現するために、「ものづくり・人づくり・まちづくり」を推し進めていう必要があります。

6、福祉・人間工学の専門家養成を
21世紀には街づくり、交通機関、家づくり、リハビリテーションのための様々な福祉機器の研究開発や介護をサポートするための介護用ロボット、日常生活で使用する生活用品の開発、ペットロボット(一部の企業で始めた)、障害がある人でも利用可能な情報通信機器の開発など、あらゆる面において福祉工学・人間工学的な専門家が 
必要になっています。企業としても福祉分野への進出はビッグビジネスのチャンスです。その意味で福祉工学の専門家はいろいろな方面から雇用が見込まれます。福祉工学の専門家養成には工学系の技術や知識の習得のみならず、医学・理学・心理学・教育学・福祉学・経済学・健康科学、科学倫理など様々な分野の教育カリキュラムの基礎のうえに、さらに工学的な視点を養うといういままでにない新しいタイプの教育が必要されているのです。

7、岩手大学福祉システム工学科
岩手大学では、21世紀に必要とされる応用科学技術研究を先取りして、工学部に福祉システム工学科を平成12年に開設いたしました。そして、福祉システム工学科では、人間を含めた全ての生命体の仕組みを理解し、総合的、俯瞰的視野に立ち自然と人類の調和・共存に必要な先端科学分野の基礎研究等を推進し、従来の工学だけでは得られなかった「新たなルーツ」を身につけた福祉工学分野の人材育成を目指して、教育・研究に着手しました。本学科は、福祉生体工学講座と福祉基礎工学講座の2大講座の体制で、教育研究分野は、前者が生体機能工学、生体情報処理工学を、後者がメディカルエレクトロニクス、福祉材料工学、福祉機器工学を担当しております。具体的には次のような内容です。
・福祉生体工学講座
・ 生体機能工学
神経系、運動系、循環器系などの機能の生体・生理工学に関する教育研究を行っています。
・ 生体情報処理工学
脳、神経系の仕組みを遺伝情報処理、分子生物学、シミュレーションにより研究し、医療・福祉機器への応用を目指した教育研究を行っています。
・福祉基盤工学講座
・ メディカルエレクトロニクス
福祉を工学の立場から支える電子工学の基礎及び福祉に応用される電子工学、メディ カルエレクトロニクスに関する教育研究を行っています。
・ 福祉材料工学
医療用具・医療機器を製作するために用いられる生体材料(バイオマテリアル)、超軽量高強度材料および超伝導技術を利用した福祉センサーなどに関する教育研究を行っています。
・ 福祉機器工学
次世代の医療・福祉機器、健康管理・増進、福祉支援システム等の構築に関する技術分野およびフェール・セフティに関する教育研究を行っています。

本学科の入学希望者は多く、入学試験の競争倍率も年々高くなっております。教育者としてはうれしい悲鳴を上げております。特徴としては、女子学生が1/3ほどおり、他の学科に較べて女子の割合が多いためか、全体的に明るい感じです。また、まだ卒業生がでておりませんので、就職の現状を述べることはできませんが、将来性のある分野ですので、多くの企業からの求人は確実ではないかと考えております。

8,キーワード
最後に、2つほど福祉工学を考える上で重要なキーワード参考としてまとめておきたいと思います。

・ユニバーサルデザイン
人権意識の強いアメリカでは、“全ての人が使用できないような製品は差別である” ということから、社会に、ユニバーサルデザイン(universal design)の意識が強い。ユニバーサルデザインは、全ての人々へのデザイン(design for all)ということであり、障害者、高齢者などハンディのある人へのバリアフリーはもとより、どのような嗜好、行動もある得るということを踏まえた上で、それらに対応することを考えて、製品設計を進めるということである。

・人間工学
人間工学に相当する“英語”は二つあり、それぞれ歴史と、目指すところが若干異なります。(ErgonomicsとHuman Factors)

・-a, Ergonomics(ヨーロッパ発の考え方)
ヨーロッパを中心に産業革命の頃、発祥してきた人間工学です。往時は、長時間・悪環境・重労働が当たり前で、労働者は基本的人権としての健康を蝕まれる状態でした。そのため、よりよい労働条件を求めての、労使紛争が相次いだのです。そこで、労使が合意できる“労働の基準作り(作業管理、環境管理、健康管理)”が必要になり、医者(公衆衛生)による、労働科学研究所が発端となり、人間工学が生まれました。この歴史は、現代では「労働基準法」へと引き継がれています。ちなみに、ErgonomicsのErgoは労働というい意味を表すギリシャ語で、micsは、学問を表す接尾 語です。

・-b, Human Factors(Engineering) (アメリカ発の考え方)
アメリカを中心に、第1〜2大戦ごろ発達してきた人間工学です。当時多発した航空機事故の原因を調べていったら、パイロットの「計器の見誤り」が原因であることが明らかとなりました。この事故に対して、アメリカ軍は「特別な教育訓練や、注意力を要求するような機器(システム)はよくないシステム」と考え、「誰でも」「どんなときも」「すぐに使える」システムにすべきであるとし、読みやすいメータの研究に着手しました。これがベースになり、「機器の使いやすさ向上技術」として、人間工学が発達したのです。



謝辞
本稿の作成にあたり多大な協力をしてくれた岩手大学工学電気電子工学科の米田潤君に感謝します。



著者略歴
一ノ瀬 充行(いちのせ みつゆき) 理学博士

1955年 茨城県に生まれる
1978年 筑波大学 第1学群 自然学類卒業
1979年 島根医科大学 医学部 教務員
1982年 島根医科大学 医学部 助手
2000年 岩手大学 工学部 助教授
2001年 岩手大学 工学部 教授


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